[章]

 人並みに社会的地位を築いた今でも、ふと何かに迷う時必ず手にする本がある。といってもその内容には道しるべになるような説示はほとんど書かれていない。
 では一体この本のどこから道標を得るのか?
 答えはそれ自身の存在そのもの。本を執筆した父さんとそれをずっと見守ってくれた特別な二人。みんなと過ごした夏の水たまりのように儚く不安定だったあの数年が、この一冊にリンクしている。ただそれを確認するだけで僕は進路を誤ることなく進んでいけるんだ。


『終わりなき路 植月卓二』


それは七日間にわたる北海道一周から九州をめぐる五日間まで、全十二編に及ぶマイカーでの旅行記である。
この本を書くように勧めたのはずっと父さんを忌み嫌っていた当時の僕だった。

「はぁ~」
 この深い溜息にそれほど意味はない。ただ、時計が午前0時を指し示したことでひきこもり生活が六年目を迎えた。きっとその記念行為なんだと部屋で一人、僕は卑屈に笑ってみる。
 いちがいに原因や症状などを特定すべきではないが、ひきこもりを自分なりに例えるならエイズ感染が当てはまると思う。HIV(エイズウイルス)によって抵抗力を失った体。それと同じように精神からも抗体が消え、健常な人なら対処可能な外的ストレスが僕には太刀打ちできなくなる。
 この結果、無防備な心をさまざまな雑菌が冒し自室に隔離させられるのだ。はじめはその重要性を無視していたが徐々に社会から離別されていく自分に気付く頃、すっかり免疫が消えてしまった僕の心は亡骸に近い存在になり果てていた。
 もっともそんな理屈は言い逃れに過ぎないのかもしれない。人が堕落するきっかけなんて平坦な道でつまずくようなものだ。恥ずかしまぎれにその足元をのぞいても石一つ落ちていない。
 僕はこの五年間、焦りと同居している絶望の心地よさとともに生きていた。