[章]

「ちょっと温人。俺はもう車の運転ができると思うんだけど、どうだろうな? そろそろまた旅行にいきたいんだ」
 退院から一ヶ月ほど経過したこの日、簡易マットでマッサージを受けながら父さんは当たり前のようにそう告げた。それまで不気味なほど運転に関する話が出なかったのに、ずっと未解決のままだったこの問題がとうとう姿を現したのだ。
 退院前日、担当医に「運転をしてはいけない」といわれた父さんがそれに関してひと言も口にしなかったのは、やはりはじめから先生の忠告を無視するつもりだったからなのだろう。自分に都合の悪い話には一切聞く耳を持たないとはなんて身勝手な人間なんだ。今もなお駐車場に居座るマイカーを処分しないのはまだそれに乗る意思の表れだった。
「運転? 先生はもう運転しちゃダメだってはっきりいったよね」
 さも当然のように言い出したその言葉を受けた僕は、心中に揺らめくにわかな怒気を抑えつつとぼけたように確認した。
「いや、あの人は何も解ってないんだよ。俺の体がもう満足に動けないと思って、そんなことを……」

「いやいや、先生は身体のことをいったんじゃないよ。父さんの脳の働きが悪くて、危険に対するとっさの反応が鈍くなっているから運転はダメだって話した。そうだよね?」
 僕がまくしたてると父さんの言葉が詰まった。うまく反駁できる口実が浮かばないのだろう。この問題についてのディベートで僕は負ける気がしないし、必ず説き伏せなければならない。
 確かに退院から二ヶ月で父さんの運動機能は予想以上に回復した。文字を書くための指、物を持ち上げるための肩や肘は俊敏さこそ衰えを感じるが、入院直後のまったく動かなかった状態を思い出すとまさに奇跡だといえる。足だって相変わらず少し引きずるがちゃんと歩けるし、膝の曲げ伸ばしだってさほど問題ではない。
 そんな成果が運転への意欲を再び湧かせた。いや、本人はリハビリの結果がどうであれ車の運転だけは固守したかったのかもしれない。担当医の説明について何も語らなかったのはその気持ちの現れに他ならなかったのだ。
 しかし先生が話した通り、運転できないのは右半身の問題ではない。逆に身体だけが不安だったのなら障害者用の自動車などいくらでも解決方法がありそうだ。