[章]

 不思議なことにここ数日間、ルビィやテーゼからは父さんの話を持ちかけられなかった。ルビィへの配慮もありケンカの話はまったくしていないのにどうしてだろう? なんとも不可解だったが逆に近況を聞かれても困ってしまうのでこの方が都合がいい。
 今回の一件で感じたことはあの二人に嘘をつくことへの抵抗感だ。確かにどんな作り話でも言い通せる環境かもしれない。しかしネットだから、顔がわからないからこそせめて言葉だけでも本当の自分で接したいんだ。


「温人……。ずっと前にお前が話してくれた旅行記を、書いてみようと思うんだ。……運転は、危ないからもう止めような」
 耳を疑う父さんの言葉はあの大喧嘩から二週間ほど経った夕食の時だった。春を迎え、もうそろそろストーブの灯油も買わなくていいかな? 母さんが僕に話していた最中、突然意を決したように父さんが口を開いた。
「……え?」
 相変わらず身勝手な話の切り出しだがそんなタイミングやストーブのことなど一蹴させるひと言に、表情ですらリアクションがとれない。

「だから温人。もしお前にまだその気があったら、俺にパソコンを教えてくれないか? あの車を今売れば、多少の金額になるはずだから、それでパソコンを買えるかな……」
 ただでさえ病気以降の父さんは滑舌が悪いのに今の言葉は一層どもっている。しかもテーブルをよく見ると、毎晩一本だけ飲んでいるビールの缶が見あたらない。もしかしてこの話をするために我慢しているというのだろうか? べつに少しくらい飲んだところでいいたいことを忘れるとも思えないが、それがこの人なりの誠意の表れなのかもしれない。彫りの深い顔には笑顔とも真顔ともとれない奇妙な形相が浮かんでいる。
「たぶん、足りるよ。……車、売っちゃっていいの?」
 父さんの言葉に半信半疑のまま、僕は軽く冷たい語気のままで訪ねた。しかしすでに自分の中に立ち込めていた重い空気が澄んでいくのを感じると同時に、顔がじんわりと火照ってきている。
 あの父さんが自分の考えを曲げた。二週間前、そのまま脳の血管が切れるかと思うほど顔を真っ赤にして激高したこの人が、自らの考えを曲げたのだ。それだけじゃない。僕が以前提案した旅行記を書きたい。そのためにこれまで見たことすらなかったであろうパソコンを習いたいといっている。