[章]

 日本の中心に連なる中央、北、南アルプスを廻る二泊三日のこの旅。事前に地図を指でなぞったところで現実の道のりなんて把握できるはずもなかった。
 一昨日の夜に静岡を出発し、真っ暗な馬籠宿の駐車場に着いたのが昨日の午前二時半。そのまま車内で仮眠を取ることになったのだがあんな狭い所で寝られるはずがない。まるで父さんの入院を彷彿とさせる寝床の悪さだ。あの三日間の泊まり込みより悪い状況はないと思っていたのに。ゆったり乗れる母さんの車も寝具としては不合格である。
 父さんは旅行の度によくこんな狭い車内で寝起きしていたものだ。もっとも僕がいる助手席で寝ることはなかっただろうがさすが150回を越える貧乏旅行は伊達ではなかった。後部座席から聞こえる寝息にある種の尊敬すら覚える。
 寝ることを諦めた僕は毛布にくるまったまま、街灯がほとんどない車窓の景色を明るくなるまでぼんやり眺めて過ごした。
 厚い雲と静かな山に囲まれた朝靄。島崎藤村の「夜明け前」の舞台である馬籠宿。

 ようやくすべての風景が確認できた頃、後部座席から気持ちよさそうに体を起こした父さんは運動がてら馬籠宿を見て回ろうといい出した。昔からの度重なる火災にもめげずに再建され昔の姿をそのまま維持しているという建物群と、水路から響く激しい水の音。まるでなだらかな滑り台に沿って町並みを構成したような馬籠を散策した僕たちは、朝食も取らずに寝覚ノ床を経由して乗鞍高原を目指した。
「中山道は江戸時代の五街道の一つで、東海道に次ぐ主要街道だな。今走っているこの塩尻市までの道は旧中山道に相当するんだ」
 異様に大きな石が鎮座している木曽川と平行する中山道を進むうちはまだそんな父さんの講釈に相づちを打つこともできた。しかし中山道から乗鞍へ続く奈川木祖線に入ると、つづら折りになった細道が不安と苛立ちを一気に高揚させる。すると僕の気持ちが乗り移ったかのように周りの木々が紅葉しはじめた。ぎこちないハンドルさばきでカーブを一つ抜け、標高が高くなるたびに色彩が鮮やかになっていく。