[章]

「ハルト? どうしたの?」
「ごめんルビィ、電話は迷惑だよね」
 うす暗い病院の廊下に僕の声だけが静かに響いている。公衆電話の受話器がヤケに重い。
「ううん、いいよ。……お父さん? お父さんの事故どうだったの?」
 清里以来かけたことのなかった電話に対し、少し驚いた彼女の声に目を閉じる。心の動揺を悟られないように冷静に話をしたい。今はルビィの声を聞くだけで、ただそれだけでいいんだから。
「今日の午後になってようやく意識が戻ったんだ。でも頭と神経が集中している首筋を激しく打ちつけちゃって、体が動かない。医者はリハビリしても回復は難しいだろうって……」
「そんな、どうして!」
「意識も途切れがちで、表情にも変化がないんだ。でも父さんいうんだ。早く旅行記の原稿を書きたいって……あんな状態じゃあキーも打てないのにっ」
 僕の言葉はここで詰まってしまった。
 ルビィと三人で会った時のような元気な父さんはもういない。現実が、この現実が僕には受けとめられない。

こんな寂しい病院を含めてここは僕たちの世界じゃない。
「ハルト、私は清里で会ったお父さんしか知らない。だから次に会う時も、あの時のままのお父さんだって思っているよ。またいろんな旅行の話を聞かせてもらえる、うれしそうに話してくれるって信じてる!」
「ハルトも、おなじ気持ちでいて」
 僕は受話器を抱えむせび泣くしかなかった。


 翌日の午後、脳梗塞で入院した駿府総合病院へ移された父さんの検査結果はやはり思わしくなかった。こちらの呼びかけに答えられることも稀で、食事もとれず目を開くことさえままならない。
 どうして……。十ヶ月ほど前に入院した時は僕の冗談にも笑顔で答えてくれた。しかし今の父さんは日を追うごとに憔悴していく。眠っている時はまるで何かと葛藤しているかのようにずっと険しい表情を浮かべ、僕はその顔をまともに見ることすらできない。
 この事故から数日間こそ旅行記を締めくくる最後の原稿を忘れないうちに書きはじめたいと話していた父さんだったが、徐々に旅行記に関する言葉が消えていった。