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 事故から一週間後、僕は父さんが書き残している原稿の代筆を母さんに話したところすんなりと賛成してくれた。その日から看病はすべて母さんに任せ、僕は旅行記のことだけに取り組んだ。
 テーゼによると文章には少なからず筆者特有のクセがあるという。ただ闇雲に書くのではおなじ作中で文のタッチが変わってしまうというのだ。したがってはじめにすべきは、今まで父さんが書いた文章をよく読んで本人固有の文体を身につけることだった。
テーゼ『ただ文章をうまくまとめるだけじゃないから、途中からの代筆は本当に難しい。お父さんの文だけじゃなく、たまに違う人の作品を読むと、その違いに気づくはずだ』
 比べてみると確かに父さんの文章と他者のものでは言い回しなどにそれぞれの色を感じる。使う語句のレベルにも個人差があるだけでなく細かいところでは句読点のリズムや、その言葉を漢字にすべきかひらがなにするかなども統一しなければならない。
 はじめは目眩を起こしそうになりながら進めたこの作業だったが、三日目にして少しずつ父さんのクセが解ってきた。テーゼにもおなじ文章を読んでもらい、これから僕が書く原稿のチェックへの参考にしてもらう。

テーゼ『いいね、ハルト。だいぶお父さんモードになってきたんじゃない』
ハルト『うん。一見ささいな語句でも、考える度にじつに味わい深いものへ変成されていく、そんな小さな発見が続いていくようだよ』
ルビィ『確かに 今までのハルトの言葉じゃない気がする・・』
 はじめは人のクセなど吸収できるはずがないと投げ出しそうにもなったが、今ではそんな冗談をいえるほど父さんの文章が身についてきた。これがもし他人のものを真似ろといわれたらまずできなかっただろう。父さんだったからこそ雰囲気がつかめたはずだ。
 しかし今まで文章とは縁遠かった僕が三日間ひたすら文字を追い続けるのは大変なことだった。字を読むのにこれほど神経を使うものだったとは。しばらく文字は見たくもない心境だがそんな悠長に構えてはいられない。
 主の文体をある程度理解した僕はすぐに父さんのパソコンから内容に関する資料のチェックをはじめた。データはしっかり整理され、書き終わった原稿が入っているフォルダ名には「済」と添えられたりと、さすがに几帳面な管理が見てとれる。