[章]

 いつもそうしているのだろう。母さんは目を閉じている父さんの肩を指先で静かにたたいた。これで目が開かなかったら昼過ぎまでこのままだろうと告げる。しばらくして父さんはゆっくりと顔をこちらに傾けながら、二重まぶたを大きく残して目を開いた。
「あぁ……」
「よかった。今日は一発で目が覚めたね。温人も来たよ」
 そういわれても父さんはなかなか反応を示さない。まだ寝ぼけているせいもあるのだろうが、その姿から人間が発する生命の意志がまるで感じられない。開かれたまぶたはずっとうつろなまま黒目だけをこちらに動かす。頭の包帯こそ取れているがとてもまだ六十代という人間には見えなかった。
「は、温人か、ありがとう……」動きの悪い舌がそう告げたようだ。
「中部山岳の原稿を書いてみたよ。父さんに読んでほしいんだ」
 僕はそう告げながらファイルケースの原稿を顔にかざした。父さんはまたしばらく無反応だったがようやく左手を差し出す。震えて覚束ないその手に僕は奥歯を噛みしめて涙をこらえる。ゆっくりせり上がるこの感情はまるでジェンガのようだ。ちょっと気を許しただけで我慢しているすべてが崩れ落ちる。

 僕は差し出してきた手に原稿を乗せた。起きあがろうとする父さんの仕草に反応して母さんがベッドを起こす。もう自力では身体すら起こせないらしい。目に見える寂しい現実をあえて無視しながら説明をはじめた。
「前書きと後書きが四枚で、本文は五十二枚で収まったよ。これくらいの量なら問題ないでしょ?」
 母さんが床頭台のメガネを父さんにかけてあげる。ベッドテーブルに原稿の束を置いた父さんはそれを一枚ずつ手にとって読みはじめた。A4一枚に四百文字。市販の原稿用紙とおなじ文字数でプリントされた原稿は比較的大きい文字なので読みやすいはずだ。
 その配慮があっても父さんは目を通すだけでかなりの時間を要した。通常の人なら原稿用紙一枚読むのに二分もあれば十分だろう。しかし父さんの場合、おなじ一枚を読むのに倍以上の時間がかかる。じっと黙ったまますべて読み終わる頃には昼食が運ばれてきた。
 さらに父さんは最後まで読むと再びはじめから読み直した。取り憑かれたように文字を追う父さんに食事を済ませてからにしたら? と母さんが促すがまったく聞こうともしない。