[章]

僕はただ黙ってその姿を見ていたが、三回目を読みはじめた時さすがに母さんの買ってきた弁当に手をのばした。その間も父さんは、お茶を二口ほど飲んだだけでひと言も発することなく原稿の文字だけをゆっくり追い続けていた。
 結局どれくらいの時間を費やしただろうか。窓から見えるビルが斜陽によりうっすらとピンク色に染まる頃、ようやく父さんは原稿の束を僕に返した。週刊誌をめくる母さんも手を止めて顔を上げる。メガネをはずした父さんが酷使した目を休めるように窓の外に目を置く。そのまましばらく景色を眺めてから口を開いた。
「これは、俺の考えていた、ものとは違う」
 僕はゆっくり息を吐きながら静かに目を閉じた。
「……だけど、こっちの方がいいな」
 窓から顔を戻す父さんにうっすらと笑顔が浮かんでいた。それは照れなどを含む苦笑いだろうか。窓から見える黄昏れたビルがビーナスラインから眺めた紅葉のように色づいていてあの旅行の一コマを見ているように、父さんは紅葉を背に微笑んでいた。
「ありがとう……温人。これで完結だ」

 僕はその静かな声に頭を下げたままずっと身動きもできなかった。

せめて声を出さないようにするのが精一杯で床に落ちる涙を止めることができない。僕のジェンガは完全に崩れてしまった。
「温人はずっとこの原稿を書いていたんだよ。この二週間寝る以外はずっと原稿のこと考えていたんだからね」
 せっかくこっちが我慢しているのに声に出して泣いていたのは母さんだった。いつでも気丈に振る舞っていた母さんが涙を流している。しかしその様子も僕の目には映らなかった。
「ありがとう、ありがとうな……温人」
 例え妻や息子だろうと自分以外を受容することのなかった父。威厳を振りまわす頑固オヤジにもなれず、ただ卑屈でわがままなだけのこの人を僕はずっと嫌悪してきた。生きることに誇りをもたず周囲に何も与えない人間。まるで不甲斐ない自分を正当化するように、僕はそんな父さんの子供であることに絶望していた。
 しかし今、照れくさそうな笑顔を浮かべながら父さんは僕の書いた文章を認めてくれた。これによって何年もつきまとっていた憎悪が払拭されていく気持ちは、一時の感情が生み出す錯覚なのか? いや、ここにいる三人にとってその答えこそ意味がない。仮にそれが衰えた父さんに対する慈悲の念を含んでいたとしても、僕の心が洗われていく様は奇跡に違いないんだ。